【思い出】運転ができなくなった話

そんな風には見えないかもしれないけど、僕の中学生時代の交友関係は不良が多く、『不良=バイク好き』という例にもれず、僕もバイクが大好きだった。

不良といっても大して悪いことをしていたわけではなく、高校に入学する際も、校則でバイク免許の取得が禁止されていたので、どうにかこの校則を破らずに済ませられないかと考えた。

幸いなことに、僕の誕生日は4月の始めだったので、高校入学前に取得を済ませておけば、既に持っているわけだから、『バイク免許の取得を禁止』という校則は破らないだろうという一休さん的な理屈で、誕生日を迎えてすぐの4月4日に原付免許の取得を済ませた。

まぁ、そうはいっても、禁止されてたアルバイトも普通にやっていたので、最初からルールを守るつもりは全く無かったんだけど……w

それで、バイクを買うためにバイトをしてお金を貯めていたんだけど、ある日、いとこの原付バイクに乗ってもいいと言われたので、僕はさっそく、意気揚々といとこの家へ向かった。

実際に乗ってみると、僕の持っていたイメージとだいぶかけ離れていることに気が付いた。

どんなイメージかというと、公道をさっそうと走り回り、風を全身に感じ、凄く爽快な気分になれると思っていたんだけど、怖くて速度を上げられないのである。

いとこの家の周辺は閑静な住宅街で、車の通りもほとんどなかったんだけど、それでも怖くてとてもドライブを楽しむような気分になれなかった。

何が怖かったのか、その理由を説明するには、僕の幼稚園時代までさかのぼる必要がある。

当時の僕は、自分に超能力があるのではないかと思っていた。

超能力があると言っても、最初から確信していたわけでは無く、ある危険な遊びを繰り返し、それが成功するたびに確信を持つようになっていった。

その危険な遊びとは、僕の近所の友達の家の前の、少し大きめの車の通りの激しい道路を、目を閉じて渡るというもの。

その道路の右側面は背の高いブロック塀があり、その道を渡る前に車が来ているかどうかを確認することはできなかった。

なぜそんな馬鹿なことを始めたのかというと、おそらく超能力特番の影響ではないかと思う。

僕は今でもそうなんだけど、昔から超能力ネタが大好きで、当時、『子供には誰でも超能力者になれる才能がある』みたいな煽り方が多かったので、それを真に受けたのだと思う。

ただ、目をつぶって渡ると言っても耳は聞こえているわけだから、何となく車が来ているかどうかはわかる。

でも、子供だからそこまで深く考えられず、何度も成功させるたびにそれが見えなくても気配を感じとる特別な力なのだと思い込むようになった。

ある日、近所の友達4人でその道を渡る機会が訪れ、僕はとうとうその超能力をみんなにお披露目しようと思った。

その道の目の前まで来ると、僕は元気よくみんなの注意を引いた。

「ねぇみんな、みてみてー!」

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※グーグルマップより、手前2つ分のブロックが無くなってるのはたぶん僕のせい……

いつもなら、慎重に気配を感じ取ってから渡るはずだったんだけど、この時は他の子がいたこともあり、目をつぶると、得意げに道路に飛び出した。

次の瞬間、僕は宙を舞った。

昔の映画に『自殺サークル』という、登場人物が唐突に自殺を始める異色作があるのだが、友達の目にはまさにこの映画のワンシーンのように映ったかもしれない。

気が付くと僕は道の端に横たわっていた。僕が渡り始めた道から10mほど離れた位置にある駐車場の入口だった。

見知らぬおばちゃんが泣きそうな顔で毛布を掛けてくれたけど、特に痛みは無く、速攻で救急車が来て病院に運ばれたが、少し足をすりむいた程度で大した怪我はなかった。

後々聞かされた話だが、僕は2mぐらい上に吹っ飛んだらしい。

僕を跳ねた車は乗用車で、大事に至らなかったのは、車を運転していたおばちゃんが安全運転をしていたからだった。

もし死んでいたら、僕がなぜ飛び出したのか、真相は闇の中だっただろう。
おばちゃんには本当に申し訳ないことをした。

ただ、僕がこの事故によって失った物も大きかった。

どうも僕の頭には深刻な問題がいくつかあるみたいで、そのうちの一つが『トラウマ体質』

印象に残ったことを強く記憶してしまい、これがマイナスに働くと、興味のあったことが無関心に、得意だったことが苦手になってしまう。

年を取るたびに増えていき、僕にとって普通の社会生活を送る上でかなりの障害になっていたんだけど、『出来ない』ではなくて、強烈な『したくない』からくる自由意志による選択だったから、30過ぎるまでこれに問題があるとは気が付かなかった。

そして、今回の件に関係するもう一つの問題が『共感体質』

相手の気持ちを察しすぎてしまう上に、自分がやられて嫌なことは他人にしない、自分が嫌じゃなくても相手が嫌がりそうなこともしないから、行動できなくなることがしばしばある。

(僕がブログに書きたいことが沢山あるのに書けないと言っている最大の理由がこれ。ネットだと不特定多数の人が見る上に、表情を見れないのでとてもやりにくい……)

だから、僕がバイクを運転中に何が怖かったのかというと、車じゃなくて、子供がわき道から飛び出してきそうで、とてもドライブを楽しむ気にはなれなかったんだよね。

そして、大好きだったバイクに対する興味はあっという間になくなり、その後運転しようと思うことすら無くなってしまった。

まぁ、こんな風に感じるのは僕の頭が普通じゃないからなんだけど、ここ最近のお年寄りによる事故や、煽り運転のニュースを聞くたびに、僕の考え方は間違ってはいないなと感じている。

というのも、僕にとって車の運転は、両手にナイフを持って、振り回しながら全力疾走するのと同じぐらい危険な行為なんだけど、実際、お年寄りの事故では一度にそれ以上の人が死んでいるわけじゃない?

 交通トラブルの相手を車でひいて死なせたとして、傷害致死罪に問われた東京都町田市の元会社員山田義次被告(46)の裁判員裁判の判決が16日、東京地裁立川支部であった。菊池則明裁判長は「正当防衛が成立する…

煽り運転にしてもこんな判例があるのに、『煽った上に、相手の運転手を何回も殴った事件』なんて、銃を持っている相手に素手で殴りかかるのとほぼ同じ行為だと思うんだけど、全くそんなそぶりはない。

ちょっとおかしいと思わない?

でもこれって、特別なことじゃなくて、大抵の人たちにとって、普通の感覚だと思うんだよね。

身近にありすぎて感覚が麻痺しているのか、銃と違って、人を傷つけるためのものじゃないから、想像できないのかもしれないけれど、運転をする人はもっと認識を改めるべきだし、免許を発行する側も、銃の携帯許可証を出すのと同じぐらいの認識をもつべきだと思う。

まぁ、僕ぐらい極端なのもどうかと思うけど、例えば試験の問題を、『こんな場所でこんな事故が発生した場合、運転手はどのような違反を犯したと考えられますか?』みたいな感じで複数から選択させるようにすれば、共感性や想像力が欠如した人もなぜ交通ルールを守る必要があるのか理解出来るんじゃないかなと思う。

校則を破りまくってた僕がこんなこと言っても説得力が無いかね?w

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